その手があったか

庵主(あんしゅ)はあとに形が残らないものが好きだ。
映画は好きだけれどビデオは嫌いだという理由がそこにある。
ビデオテープやDVDは見た後に形が残るからである。
ほしいのはその瞬間の快楽であってテープや盤ではないのだから。

生の芸事を見るのが好きだ。
落語、講談、浪曲、手品、演劇、舞踏、演奏と
見た後に何も形が残らないものだからである。
そして楽しいからである。

楽しいとは書いたがその本質はむなしさである。
それはお祭りが終わったあとのさびしさである。
あとに残る空虚感がいいのである。
そのせつなさがいいのである。

それまで場内を爆笑の渦に巻き込んでいた噺家が
話に落ちをつけるとそれまでの高揚した世界が
なんでもなかったかのように客を突き放して
高座を降りて楽屋に向かうその落差がたまらないのである。

芸を見ながらそれをおもしろいと思いながらも、
同時に生きていればこそ味わえる楽しさと
なにもしなくても時間は過ぎていくということの間に
感じる違和感のことである。

芸人はなぜこれほどまでにして人を楽しませようとするのか。
客に対してその優越感をくすぐりながら、
逆に言えば客に対して卑下しながらも
客を喜ばそうとするのか。

それは客の心をゆり動かすということの快感なのだと思う。
客を爆笑させることができる芸人こそは神様である。
人の心を掴むということの面白さを知った人たちが芸人である。
ならばその芸に乗ってあげようというが庵主の気持ちである。

逆にそういう芸を見ることもまた快感だからにほかならない。
人の心を動かすということは
芸人が客に向かって気を発するということなのである。
客はその気を受けいれるということである。

これは決まると気持ちがいい。
手当てという言葉がある。
傷の手当てである。
これは文字通り手を患部に当てることである。

それだけで人間の体はいやされるようにできている。
大怪我の場合はそうもいかないが、
腹痛とか肩凝りなどは上手に手当てをすれば
おさまるものなのである。

生きている人間の手はそういう気を発しているということである。
そして手を当てることはただだということである。
芸というのは人間が発する気のことである。
だから上手にその気を発する人に接していると心地よいのである。

落語家で若い人を二つ目という。
年取った人を真打ちという。
芸が上手だから真打ちだというものではない。
噺をしながら気を送るときに若いということは邪魔だからである。

同じ噺でも二つ目がやるのを聞いていると疲れるのである。
なぜか。
気の送り方がへたくそだからである。
というより気がとがっているから聞いていて痛いからである。

また才気走っている芸人は見ていて疲れるのである。
なぜか。
客より明らかに優れていると思わせる芸人は
客の優越感をくすぐることをしないからである。

本物の芸人はそれを感じさせないのである。
見終わったときにしてやられたと思わせるのである。
とがっている上手な芸など見たくはないのである。
まろやかな心にしみてくる芸がいい。

芸を見るおもしろさには意外性というのがある。
思ってもいなかったものに出会う快感である。
落語とか講談とか確立された様式の芸もあるが、
それまで気がつかなかったという演し物に出会う楽しさもある。

そうか、そういう手で楽しませる方法があったかという
新しい発想に対する賛嘆である。
そうか、その手があったか。
ここではその面白さを書きつらねていきたいと庵主は思っている。

このホームページは2006年2月22日にはじめました。