ゴジラ・モスラ・キングギドラ・
大怪獣総攻撃

ゴジラを見たあとで一杯と思ったが
2002.1.14の映画


 ゴジラ映画の最新作は、ガメラを復活させた金子修介監督が撮った「ゴジラ・モスラ・キングギドラ・大怪獣総攻撃」という一度では覚えられない題名で、しかも旧作と混同するような芸のないタイトルなので閉口する。「ゴジラの復活」とかいったわかりやすい題名をつけてくれないと覚えられない。
 しかもである。この映画、なんとかハム太郎との併映で、ガメラを復活させた金子修介が撮った映画(しゃしん)だというのに添え物のような公開なのである。日本映画の売り方のへたくそさを見ると怒りを通り越して辟易してしまう。
 東映の「GO」といい、以前の東宝の「誘拐」といい、興行の失敗を見るにつけ、こんなおもしろい映画をなぜないがしろにするのかと怒りを感じるのである。もっとまじめにやってほしい。
 映画会社には、映画はスクリーンで見せるという矜持はないのか。本物を見てほしいという意欲はないのか。

 金子修介のゴジラはさすがにこれまで続いたおもちゃゴジラ映画とは違ってゴジラに色気があった。
 ただ宇崎竜童は声の切れがよくないので映画にしびれることができないのである。翌日新宿昭和館で見た沢忠(さわちゅう。沢島忠監督のこと。今は沢島継志と改名したので、サワチュウと掛け声をかけられなくなったのは残念)の東映映画「一心太助 男一匹道中記」の俳優の声のよさを聞くとかつての日本映画の栄華を知るのである。中村錦之助、月形龍之介、佐藤慶、平幹二郎、稲葉義雄、ジュリー藤尾と男の声にしびれるではないか。宇崎竜童の声を持って来た金子修介の真意がわからない。

 時代の移り代わりを感じさせる映画だった。かつてのゴジラを彷彿させるのはただ一人、天本英世だけである。藤田進のような威厳のある司令官もいない。映画が軽いのである。あの俳優もいなくなった。この俳優ももういない、と庵主もそれだけ年をとったのだという思いにふける映画だった。
 宇崎竜童がゴジラについて講義する場面の若い軍人たちのお顔の醤油顔なこと。かわいい。こんな顔で戦争に勝てるのか心配になってくるのである。

 横浜に向かってゴジラが襲来し、ゴジラをめざしてキングギドラがやってくる。防衛軍の指令室は危機感と恐怖感に襲われている。その緊迫の場面で、司令官が若い士官の喜々とした情況報告を聞いて「お前、楽しんでいるのか」というセリフに爆笑。怪獣映画なのである。この手の洒落っ気のあるセリフがいい。手塚治虫の漫画にある、背景の建物に書かれている落書きのような遊びなのである。
 脚本(ほん)に伊藤和典を加えなかったのはガメラとの違いを出すためにあえてはずしたものか。

 往年の東宝の特撮映画は、その時代の科学者が描いている最新の知識を子供に教えてくれる映画だった。怪獣映画の名を借りた教育映画だった。今度の映画にはその夢の部分がないのがさびしい。映画から夢をとったら時間潰しの映像でしかない。そんな映画(しゃしん)より面白いことが、いまはたくさんあるのだ。ゴジラ映画をまかされた人は新しい夢を語ってくれなくては、人気番組の再放送と同じである。面白くてもやっぱり古くさいのである。映画で今の空気をみたいというのに。

 と見終わって、やっとゴジラらしいゴジラを見た満足感をいだいて一杯と思ったのだが、「ぼんや」はお客でいっぱい、「ナントカ屋」(よく店名が変わる店で店名失念)も満席と、けっきょくこの日はお酒にめぐまれなかった。3連休の中日である。世間は景気がいいのだろう。
 シャシンはよし、その後の酒はなしで静かに家に帰る。