★ゴジラを見たあとで一杯と思ったが★14/1/13
 ゴジラ映画の最新作は、ガメラを復活させた金子修介監督が撮った「ゴジラ・モスラ・キングギドラ・大怪獣総攻撃」という一度では覚えられない題名で、しかも旧作と混同するような芸のないタイトルなので閉口する。もっとまとまも題名を付けてほしい。「ゴジラの復活」とか、わかりやすい題名をつけてほしい。
 しかもである。この映画、なんとかハム太郎との併映で、ガメラを復活させた金子修介が撮った映画(しゃしん)だというのに添え物のような公開なのである。日本映画の売り方のへたくそさを見ると怒りを通り越して辟易してしまう。
 東映の「GO」といい、かつての東宝の「誘拐」といい、興行の失敗を見るにつけ、こんなおもしろい映画をなぜないがしろにするのかと怒りを感じるのである。もっとまじめにやってほしい。
 映画会社には、映画はスクリーンで見せるという矜持はないのか。本物を見てほしいという意欲はないのか。
 金子修介のゴジラはさすがにこれまで続いたおもちゃゴジラ映画とは違ってゴジラに色気があった。 ただ宇崎竜童は声の切れがよくないので映画にしびれることができないのである。翌日新宿昭和館で見た沢忠(さわちゅう。沢島忠監督のこと。今は沢島継志と改名したので、サワチュウと掛け声をかけられなくなったのは惜しい)の東映映画「一心太助 男一匹道中記」の俳優の声のよさを聞くとかつての日本映画の栄華を知るのである。中村錦之助、月形龍之介、稲葉義雄、平幹二郎、佐藤慶、ジュリー藤尾と男の声にしびれるではないか。宇崎竜童の声を持って来た金子修介の真意がわからない。
 時代の移り代わりを感じさせる映画だった。かつてのゴジラを彷彿させるのはただ一人、天本英世だけである。藤田進のような威厳のある司令官もいない。映画が軽いのである。あの俳優もいなくなった。この俳優ももういない、と庵主もそれだけ年をとったのだという思いにふける映画だった。
 宇崎竜童がゴジラについて講義する場面の若い軍人たちのお顔の醤油顔なこと。かわいい。こんな顔で戦争に勝てるのか心配になってくるのである。
 横浜に向かってゴジラが襲来し、ゴジラをめざしてキングギドラがやってくる。防衛軍の指令室は危機感と恐怖感に襲われている。その緊迫の場面で、司令官が若い士官の喜々とした情況報告を聞いて「お前、楽しんでいるのか」というセリフに爆笑。怪獣映画なのである。この手の洒落っ気のあるセリフがいい。手塚治虫の漫画にある、背景の建物に書かれている落書きのような遊びなのである。
 脚本(ほん)に伊藤和典を加えなかったのはガメラとの違いを出すためにあえてはずしたものか。
 往年の東宝の特撮映画は、その時代の科学者が描いている最新の知識を子供に教えてくれる映画だった。怪獣映画の名を借りた教育映画だった。今度の映画にはその夢の部分がないのがさびしい。映画から夢をとったら時間潰しの映像でしかない。そんな映画(しゃしん)より面白いことが、いまはたくさんあるのだ。ゴジラ映画をまかされた人は新しい夢を語ってくれなくては、人気番組の再放送と同じである。面白くてもやっぱり古くさいのである。映画で今の空気をみたいというのに。
 と見終わって、やっとゴジラらしいゴジラを見た満足感をいだいて一杯と思ったのだが、「ぼんや」はお客でいっぱい、「ナントカ屋」も満席と、けっきょくこの日はお酒にめぐまれなかった。3連休の中日である。世間は景気がいいのだろう。
 シャシンはよし、その後の酒はなしで静かに家に帰る。


★車線変更★14/11/18
   映画「チェンジングレーン」である。
 男は、一人は白人、もう一人は黒人である。アメリカ製の映画には、必ずといっていいほど黒人が出てくる。また多くの映画には律儀に日本人とか中国人とかの東洋人も出てくる。庵主には見分けがつかないが、白人もドイツ系とかイタリア系とかを満遍なく配しているのだろう。だからアメリカ映画を「ハリウッド動物園」と庵主は呼んでいる。
 アメリカでは誰もが平等だよという建前からの人種差別に対する配慮というより、観客層に対する営業的配慮なのだろう。だが、それをやればやるほどアメリカの黒人差別が今なお激しいことが伝わってくるのである。愚民政策を国内でやっているのだから、自国民を激しく差別して成り立っている点では中国にも似ている。自国内に植民地をおいているようなものである。収奪あるのみ。建国の事情もあるのだろうがご苦労なお国柄であることがわかる。
 さて、今回の映画は白と黒の対立である。だからわかりやすい。このように書くと、傲慢な白人とひねくれた黒人が対立するストーリーのように思われるかもしれないが、そうは問屋がおろさない。ラストシーンが気持ちいいのである。佳作である。
 それよりこの映画の悪役は住基ネットの危険性なのである。黒人を追い込む凶器が、どうやっても安全管理ができるわけがない住基ネットなのである。アメリカではこのように悪用されていますよという啓蒙映画なのである。個人の預金残高から病歴まで全部お見通しになるシステムである。「お前のデーターはこうやってすべてわかってんだよ」という脅迫映画といったほうがいいか。アメリカは日頃からこういう映画で国民を恫喝しているのである。可哀相なアメリカ人。
 でも、この映画が事実だとすると、日本からも米国の住基ネットに不正アクセス(接続)できるわけだから、存外便利なシステムといえないこともない。大統領が麻薬を吸ってたというような病歴もわかるのかな。
 アメリカでは離婚した夫がその子供に会いにいくことを禁じる制度があるということもわかる。家族に害を与える夫なり妻は爾後その子供や配偶者には近づいてはいけないという制度があるようである。家庭内暴力の夫もしくは妻をその被害者から引き離すという制度みたいである。そういうところだけを見るとアメリカはしっかりしているように見えるのだが、基本的には人権を抑圧することで維持されているすごい体制であることが見えてくる。多人種で構成される国家の難しさが見えてくるのである。まったくご苦労なことである。
 その点、わが国は北朝鮮に恫喝されて不本意ながら生活している在日朝鮮人をどう援護していくか、どう対処していくかぐらいで、対象がしぼられてくるからまだしも楽であるが、アメリカみたいに異教徒がごまんといる国では強圧でしかまとめていくことができないのだろう。全国民共通の敵がないとまとまらないのである。重ねてそのご苦労をねぎらいたくなるのである。それにしてもその手段がイラクとの戦争というのでは、はたから見ていてやっぱり「ご苦労なことで」としか言いようがないのである。
 黒人は離婚以来酒を断っている。アルコール依存症である。酒が離婚の一因になっている。白人男によって住基ネットのデーターに手を加えられ銀行口座が閉鎖されてしまい生活が追い詰められ生きる希望が閉じ込められたしまった男は、絶望をごまかそうと白昼ショットバーでアルコールを注文する。
 バーボンウイスキーである。「レモンを」と頼むと、バーテンダーはレモンを切ってグラスの口に挿してくれる。そこからが男の酒との戦いである。
 相手はもちろん目の前にあるバーボンではない。自分の自尊心である。矜持である。男はそのグラスに手をつけるのか。映画はすぐにはそれには答えない。ここで男が手をのばさないとその黒人が聖者になってしまうし、そんな黒人がいるわけがないというアメリカ(白人のこと)の常識を裏切ることになるし、手を付けるとこの映画の白人と黒人のバランスがくずれて映画が崩壊していうのである。やっぱりどうしょうもない黒人じゃないか。だったら白人のやっていることは悪ではあるが当然の行為であると思ってしまう。シナリオライターはその葛藤をどうやって切り抜けるのか。見ていてドキドキするのである。
 庵主は酒が呑めるが、幸い量が呑めない体質なので、アルコール依存症を憂うことはないのだが、世の中にはアルコールで依存症を起こしてしまう人がいるのである。しかも暴力性を発揮してしまう人もいて周囲の迷惑になっている。それを、その家族内の問題だからと見て見ぬ振りをするものだから家族は悲惨である。だからその手の人を家族から引き離すということを社会的にやるということは家族を守るためには必要なことなのである。介護とかアルコール依存症の人をその家族に押しつけるというのは何の解決にもならないからである。
 映画でも男をその子供に会わせない場面があったが、これは離婚した夫というより夫の酒乱が原因で離婚したその男から子供を守るためだったのかもしれない。
 庵主がこうしておいしいお酒を呑めるのも酒が呑めないという恵まれた体質による。不幸にしてアルコール依存症になってしまうほどお酒が飲める方には申し訳ないが、「あんたの依存症はけっして個人的な原因によるものではないよ」とヒントを与えておきたい。
 ということを知っていても庵主は見て見ないふりをして、映画を見終わった後にうまい酒を呑むのである。おいしい映画だったときに呑むのである。
 久しぶりにマティーニーを飲んだ。映画のコクに合わせた酒を飲むのである。今宵に酒はまた一段とうまかった。
 庵主は酒場のシーンに出て来たバーボンの銘柄を一生懸命見ていたのだが、終映後のロビーで女の子たちが話しているのを聞いていたら「ベンツってぶつかっても丈夫なのね」と車のことを話している。
 一本の映画でいろいろな見方ができるからおもしろい。というより映画を見ていてもそのおもしろい所をほとんど見ていないということなのである。ただ自分の注意のいく部分だけを拾っているのである。だから後から映画の解説書を読むと、あの映画はそういうことを言っていたのかと感心することが少なくない、庵主の場合は。
 映画は車線変更をしそこねて衝突した2台の車の軋轢だった。偶然の衝突が二人の男の生き方を変えるのである。
 庵主もいま車線変更中である。さてこれからの生き方がどう変わるものか。ぶつかってくる車はあるのだろうか。


★この世の外へ★16/2/27
 封切り上映の最終日に飛び込んで映画を見ることがよくある。
 庵主はテレビを持っていないので、ビデオデッキがない。だから映画をビデオテープで見ることができない。よって、見たい映画は封切り時に見ておかないと永久に見ることができないことになる。封切りの終映日が近づくと新聞の映画欄に何日限りという予告が出る。見たいと思っていた映画はそれまでに見ないと庵主は二度とその映画とは出会えないだろう。
 阪本順治監督の「この世の外へ クラブ進駐軍」の最終日の最終回に間に合った。
 いま「ラストサムライ」というハリウッド映画が話題になっている。どうだ、ハリウッドはここまで日本人を描くことができるぞという自信に満ちた映画である。俺達は日本人をここまで知っているんだぞという婉曲な威嚇でもある。俺達の手の中で踊らされているのだから、俺達の言うことを聞けというのが本心だろう。よく作られた映画であるが、それゆえにちゃんちらおかしい映画である。日本人だってアメリカの社会がよく見えているということに彼らは気がつかないらしい。いやアメリカ社会の構造をよく知っていても頬かむりをしているのである。
 外国人が歌舞伎(日本)をやったら違和感はまぬがれないだろう。同様に外国人が日本を描くことのしらじらしさはまたまぬがれないのである。
 上手に作られた映画であるが、それゆえにかえって映画技術のうさんくささを教えてくれる恰好の映画でもある。映画のウソが分かりやすいという観点からはこれぱ実にいい映画なのである。
 ハリウッド映画は政治的な宣伝であると同時に白人からの言伝(ことづて)でもある。いまこの時に「ラスサムライ」が出てきたことの意味を考えるのである。
 「セブンイヤーズインチベット」という映画があった。中国のチベット侵略に対する牽制である。中国に対するイヤミといってもいい。ピック(お人好しな白人の愛称)はそういうちょっかいを出すことが大好きなのである。ロードショーの公開に先立って予告篇でそれを知らせるように、何かをやるときにちゃんと予告篇を流すところが彼らの律儀なところである。習性なのだろう。背中からばっさりくることはない親切な人達なのである。
 「ラストサムライ」が今出てきたのは、多分自衛隊のイラク派兵の後押しするためだろう。ほら、サムライを褒めてあげるから、そのサムライ精神をイラクで発揮せよという宣伝である。だからこの映画は今でなければならなかったのである。撮影は1年前から進められていたから、ワシントン政府のイラク侵攻はずっと前から計画的に進められていたことがわかる。
 あほらしい。最後のサムライの悲劇を描いた映画を作っている暇があったら、自分とこの、ワシントン政府に食い物にされているアメリカ人の悲劇を描くのが喫緊の仕事だろうに。
 ホイ、イラクに自衛隊を送れ、という映画のいかがわしさに答えた映画が「この世の外へ」である。この映画はこの時期に封切られた。「ラストサムライ」に対する強烈な回答となっている。この映画を見ると「ラストサムライ」はわらってみることができるのである。
 朝鮮戦争に送られたアメリカ兵の不幸を描いて、ワシントン政府がアメリカ人の命を弄んでいるというのにアメリカ映画はなぜそれを描かないのかとからかうのである。描けるわけがないのを知っていて「ガキ、自分の足元をよく見て映画(しゃしん)を撮ってご覧」とエドワード・ズウィック(「ザ・ラストサムライ」の監督さん)をたしなめるのである。
 期せずして公開時期が一致した2本の映画に浅薄な悪意と寛容の善意とを見たのである。
 この日、庵主ははじめて「ドラフトワン」を飲んだ。ビールのようでビールでない、それでいていかにもビールみたいな下手物だった。芯がない酒だった。「ラストサムライ」は「ドラフトワン」のような映画だったのである。
■銀座 ピカデリー2 一緒に見た人約70名■


★ラブストーリー★16/2/29
 2月のおまけの日の夜に「ラブストリー」を見た。監督は「猟奇的な彼女」を撮ったクァク・ジェヨン。でよかったかな。漢字で書いてくれれば覚えられるが、中国人とか韓国人の名前はカタカナで表記されると庵主はどうにも覚えられない。たとえばマオツートンと書かれると毛沢東が思い浮かばないのである。だから「冬のソナタ」の美男美女の顔は覚えているがお二人の名前が覚えられない。端役に至るまでの役者の名前が出てくるようになると映画の話は俄然おもしろくなるのだが、庵主にはそういう芸当ができない。映画解説をやっているわけではなく、ただ酒を呑んでいるだけだからそれはそれでいいのである。
 韓国映画である。いま韓国映画がおもしろい。そして上映時間が長い。庵主はそれを尺長(しゃくなが)という。フィルムが長尺の映画だという意味である。
 インド映画は上映時間が3時間ぐらいというのが標準だという。映画館に涼をとりにくるのが目的なので長いほうがいいのだという。映画の中身より納涼目的に重点が置かれているのである。よくいえば観客に対するサービスである。観客のサービスといえば、最近のやたらと長い映画というのも観客に対するサービスなのだろう。映画の中身の濃さより暇つぶしに徹しているのである。本当のところは観客の想像力をばかにしているのだろうが。それもちゃちなCG画像を多用して。
 若い人にはまだ時間がたっぷり残っているからそれが快感かもしれないが、庵主のように山を越した者にとってはいたずらに長い映画は命を削られているような気分になるだけなのである。
 映画の質は確実に落ちていると庵主は見ている。ちょうどオーディオがかつての精彩を欠いて、今はみかけだけのきれいな音しか再現できないという状況に似ていると思う。耳はくすぐるが、心をくすぐらない音になってしまったのである。
 「ラブストーリー」はなつかしい映画なのである。日本映画の30年前の活気を見ているようななつかしさにひたることができるのである。ようするに韓国映画は日本映画の栄華に比べると30年遅れているということである。
 韓国映画を見ていると、同時代に現在と過去を見るような奇妙な感覚になつかしさを感じて心がやすらぐのである。なつかしいということで自分の経験のすべてを許してしまうことができるから心地よいのである。
 映画のストーリーもまた現在と過去を錯綜させてそれ自体がなつかしいという感情に訴えるよくできた台本だったが、その映画自体が庵主にとってはなつかしい映画だったのである。
 昔、エリアカザンの「エデンの東」を見たときに、映画のストーリー同様に、その映画の存在自体が映画のストーリー同様に偽善の苦悩を表しているのではないかと感じて二重に不思議な気持ちを味わったことがあるが、それと同じような印象を「ラブストーリー」という映画を見ていて感じたのである。
 ベトナム戦争に韓国は兵隊を送ってかなりの悪さをしてきたと聞く。もちろん韓国にかぎらず兵隊さんは合法的に違法(悪さ)をしてくる集団だからその非は問わない。兵士には「運が悪かったですね」と同情するだけである。逆にその兵士に理不尽なことをされた人は、兵士の非を、その兵を送った人を大いに詰るがいい。いや、詰らなくてはいけない。だから、原爆を広島と長崎に落した人に対しては平和祈念祭みたいなことをやっていないで、アメリカの非を未来永劫に非難するものでなくてはならないのだ。その非難をつぐむという過ちを二度と繰り返してはいけない。それこそ職業被爆者の出番である。被爆者は職業として大いにアメリカ非難をやりなさい。それが天職なのだから。映画の主人公もベトナムの戦場に送られて負傷して盲になって帰ってくる。
 兵士を人殺しの現場に送っておいて、その兵士のやったことをあとから非難する奴がいたら庵主は軽蔑する。そんなことは初めからわかっていることだからである。それを知らなかったふりをして非をならすという行為が卑劣だと思うからである。
 長生きすれば恥じ多しというが、たまたまその事に遭遇して自分の非力を感じる機会が長生きしていると多いということである。早死にした人がきれいなのは、そういう機会にぶつかることがなかったから汚点を残さずにすんだということなのである。運悪く庵主が兵士という立場になったときには同じことをやったであろう。非をならす人間が信用できないのは、自分がたまたまその立場にいなかったという僥倖をもって正義(自分にとって都合のいいこと)を語るからである。そんな薄っぺらな言葉には説得力がないのである。庵主は、人に代わって戦場に赴いてくれた兵士にその身の不運を同情するだけである。それ以上のことは庵主には言えない。
 ベトナム戦争での米兵の死者は5万数千人だと思ったが、戦後になって帰還兵にその死者数を越える6〜10万人の自殺者を出していると見解を読んだことがある。戦闘の記憶がよみがえってきて気が狂ったか、戦場で覚えた麻薬が体を蝕んだか、社会からうとんじられて絶望したか、捨て駒として使われた兵士の実態がそれである。
 今、イラクになぜか自衛隊を派兵することになったときに、その無意味な用兵を阻止することができない無力感を感じてならないのである。
 昔、寒冷の地満州の関東軍が南方に持っていかれて、玉砕という名の無意味な死を強いられた歴史を知っているだけに、寒冷の北海道から砂漠のイラクに兵隊を送ることに前轍を踏んでいるような危惧を感じてならない。
 第一、自衛隊は専守防衛ということで装備が行なわれているから、海外に遠征して戦争ができる装備があるわけがないからである。
 相撲取りにサッカーをやれといっているようなものである。パトカーに火事を消してこいというようなものである。消防車という装備がないと消火活動はできないのである。今回のイラク派兵について、小泉総理と石破防衛庁長官はバカであると庵主が断ずる理由である。しかも知っててそれをやっているというところが質が悪い。この程度の人間が無用な用兵を行なうことを制止できないところに、歴史に流される人間の悲劇があるのだろう。いまその場にいるというのにどうしようもないのだから。
 なあに、自分の存在価値を過大評価しているから気になるのであって、アメリカから要請されたイラク派兵に対して対応を判断して実行する立場にいなかったのだから、責任を感じる必要はさらさらないのである。イラク派兵が凶と出たときにはすべて派兵に賛成した国会議員の責任なのである。バスの運転手が起こした事故に対して乗客は責任がないということである。
 過度の責任感を感じて興奮している気持ちを鎮めるためにうまいお酒があるのだ。まあ、まあ、まあ、自分の器量を越えた使命感は心の健康に悪いって。酒でも呑んでくつろぎなさい。
 映画のあとで飲んだのは曙橋の和平飯店の生ビールである。いつ飲んでもさわりなく喉を通りすぎていく生ビールである。うまいと感じてひっかかったり、まずいという苦みを感じさせることなく、ただただすっと喉元をすりぬけていき、のどに爽やかな気分を残していくだけなのがいい。喉にここちよい味わいだった。一杯の生ビールが、映画を見て感じたことを水に流すようにあっさり喉元に流しこんでしまったのである。
■日比谷 シャンテシネ2 一緒に見た人約35名■


★「戦場にかける橋」★シアターアップル/300円 16/9/1
 朝っぱらシャシン(映画のこと)を見たからそのあとの一杯はない。庵主は昼間っから酒を飲まないことにしているからである。
 映画は1957年に製作された「戦場にかける橋」である。たまたまチケットショップをのぞいたらシアターアップルの招待券が300円で売っていたことと早川雪洲を見てみたかったからである。
 昭和36年の映画である。庵主が小さかったときに映画館で見た記憶がある。もちろんストーリーはすっかり忘れてしまっている。
 ところで映画の原題はなんだろう。「クワイ川マーチ」だったっけ。タイトルが出たら「クワイ川の橋」だった。ほとんど直訳のようである。
 監督がデビット・リーンだった。この人の映画はなぜか庵主と波長が合わないのである。見たあとに疲労感が残るということである。上映時間が2時間45分とあるから耐えられるかと思ったが大丈夫だった。
 今回はストーリーではなく昔見た映画だということで懐かしさを見ていたからである。
 昔の映画は最後のロールクレジットが短いということに感動してしまった。いまどきの映画は最後のロールクレジットがやたらと長いので庵主は老人性おしっこだらだらクレジットと思っている。映画も歳をとってきれが悪くなったのである。
 早川雪洲扮する斉藤大佐はやけに英語がうまいなと思ったら、昔ロンドンに留学していたという設定になっていた。納得した。さすがにシナリオはうまいのである。
 渡辺邦男監督の「明治天皇と日露大戦争」という古い映画があるが、あれだって今見ても十分楽しめるのである。いまどき流行りのCG多用の映画を見ていると疲れてくるのと違って、手作りの映画は見ていても十分に消化ができるから心にしみるのである。CGで作られた画面は何が写っているのかよくわからないことが多いからイライラする。
 「戦場にかける橋」でいちばん気になったのはツブシである。疑似夜景のシーンである。空はピーカン(超晴天)なのに、画面が暗いのである。おいおいこれは真昼の光じゃないかと、今なら思う。昔はそれを夜だと思って見ていたのだろう。というのも気になるのは庵主が趣味で写真を撮っているから光の味わいに敏感になっているからである。昼の光なのに画面が暗いと露出を間違えたのではないかということのほうが気になって、ストーリーに身がはいらなくなってしまうのである。画面が暗いのは夜だという約束事で見ていれば問題ないことなのだが。でもやっぱりツブシはいやだ。
 それともう一つ、役者のクロースアップ(大写し)のときなど、顔の位置の置きかたが庵主の好みと違っていると、見ていて落ち着かないということがある。写真をやっていないころには気になることのなったことである。
 早川雪洲はさすがに貫祿がある。なんでも昔の方がよかったというのは歳をとった証拠だというが、やっぱりすごいのである。市川雷蔵とか森雅之の、男の色気を今は見ることができない。長谷川一夫の色気までは必要ないが。
 そういえば、イギリス軍の大佐が斉藤大佐の言うことを聞かないことから、中に入ると立つこともできない小さな造りの“釜”と呼ばれている懲罰房に何日も閉じ込められているが、その間ウンコやおしっこはどうしていたのだろうかというどうでもいい疑問がわいてきて、シナリオってのはきたないことは書かなくてもいいのだと知ったのである。時々懲罰房から出されて来るときに大佐のズボンは汚れていないのだから、イギリス人はウンコやおしっこをしないのだろうか。
 登場人物がなんで生活費を稼いでいるのかわからないようなシナリオや、この手の細部が杜撰なシナオリはそういうところが気になってストーリーにのめり込めないから困るのである。庵主の悪い癖である。
 しっかりお金をかけて作られた映画をただ懐かしいという思いだけで見ていたのである。
 ちなみに、この映画の原作のピエール・ブールは「猿の惑星」の原作者でもある。だから捕虜として日本兵にいじめられたブールは後年、その屈辱から日本人を猿にみたてた本を書いたのであるという解説をどこかで読んだことがある。そうかもしれない。人間は人種差別が大好きなのである。
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 9月1日の午前10時上映の回に行ったのだが、結構お客さんが入っていた。300いや400人ははいっていただろうか。時間が時間だから、定年後といった年寄りがほとんどあるが、比較的若い女の子もいる。老齢の御夫婦と見受けられるカップルも多い。さすがに東京である。人が多いだけあっていろいろな人がいる。社会から必要とされていない人といったら言い過ぎかもしれないが、会社などに行って仕事をしなくてもいい人たちがいっぱいいるということが分かるのである。
 だいいち、庵主自体がいまだ天命くだらず、天職を授からないままに、ここしばらくはまったく収入のない生活をしているのだから、一人や二人働かなくたって世の中はまわるということなのである。  日本には1億円以上の蓄えがある人が106万人もいるということを読んだことがあるが、そういう人達はあくせく働くなくてもいいということなのである。ためこんだお金を有効に使ってくれることが社会の役に立つということである。でもそういう人はお金を使わないからたまったのだから生き方を改善しないと宝の持ち腐れとなるのである。
 みんなが貧乏な頃は、まずは食うことが先決でその生活に差が出ないが、豊かになってくると、財産的にも、才能的にも多くの違いが出てくるのである。人間はけっして平等ではないということを改めて知るのである。
 庵主は映画を見に行って、スクリーンと一緒にそれを見に行く人も見てくるのである。
 庵主にとっては多くの人と一緒にシャシンを見るという状況が映画なのである。だから、DVDの映画ソフトを買ってきてホームシアターとやらで一人でそれを見るというのは異常な性癖だと評価するのである。口にはしないが、それはダッチワイフだと侮蔑しているのである。映画のカスを見ているのである。本物を見たほうがずっと面白いのにと憐れんで見ている。
 ないよりましだろうという考え方もあるかもしれないが、ダッチワイフを極めても、それは本物の世界とは別の物ではないだろうか。せっかく見るのなら本物を見たいと庵主は思う。
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 前説
 上映開始までの時間を借りまして、私が「戦場にかける橋」について知っている二、三の事柄をお話したいと思います。
 この映画、「戦場にかける橋」の原作者の名前はご存じでしょうか。ピエール・ブールといいいます。クレジットタイトルの中にリトン バイ ピエール・ブールと出てくるはずですから、見落とさないでください。ピエール・ブールは、実は、あの「猿の惑星」の原作者でもあるのです。すなわち、「戦場にかける橋」と「猿の惑星」の原作者は同じなんです。
 ピエール・ブールは「戦場にかける橋」の英国人捕虜の一人だったのでしょう。白人は黄色人種や黒人を人間とは思っていません。その日本軍にいじめられたのですから、そのときの鬱憤を「猿の惑星」で晴らしたのでしょう。
 私は英語が得意ではありませんので、「猿の惑星」の原題は「ザ スター オブ モンキーズ」かと思っていましたが、映画を見たら「ザ プラネット オブ エイプス」とありました。
 エイプスというのはしっぽのない猿のことです。辞書で調べました。モンキーよりは少しは深化した猿というところでしょう。人間でもないのに智恵のある猿といった所でしょう。この猿のイメージは日本人です。ピエール・ブールは、捕虜として日本人にいじめられた屈辱感を「猿の惑星」を書くことでで晴らしたということです。小生意気な猿、日本人めといったところです。
 映画の業界用語に「セッシュウ」というのがあります。ご存じでしょうか。年配の方は知ってらっしゃる方も多いかと思います。
 俳優さんを台の上に乗せて、背を高く見せることです。
 映画の画面で男の俳優と女優が並んだところを写したときに、男の背が低いと収まりが悪いので、背の低い男優に「セッシュウ」を使います。そうすると、なんとなく落ち着くのですね。
 その「セッシュウ」の語源が、今日の映画に出てくる早川雪洲なのです。
 早川雪洲という俳優さんは、当時のアメリカでは凄い人気のある俳優でした。いまで言えばマリナーズのイチローみたいなものです。
 田園調布に家が建つではありませんが、ビバリーヒルズに広大な邸宅を構えて、女の人にはもててもてて、ファンレターも山のようにきたといいます。映画の出演料も破格でした。
   早川雪洲を知らない若い方は本屋に行って映画の本を探してみてください。
 そういうかっこいい俳優がいたのです。その早川雪洲がこの「戦場にかける橋」に出てきます。
 私はそのスター早川雪洲を見るために今日ここにやってきました。
 大スター、早川雪洲のオーラを早く見てみたいと思っているところです。
 ところで、こうして場内を見てみますと、平日のしかも朝の10時だというのに大勢のお客様がいらっしゃっているのをみてビックリしています。
 東京にはこんなに暇な人がいるのかと驚いてます。もっとも、私もその一人ですからなにもおどろくことはないのですが。東京には、朝っぱらあくせく働かなくても生活に困らない余裕のある人がこんないるということなのです。しかもわざわざ劇場に映画を見るために足を運ぶというのだからそうとう教養のある方ばかりだと思います。
 年配の方は、これまでに数多くの映画をご覧になってきたからお分かりのことと思いますが、若い人の中には映画というのは、スクリーンに写っている映像が映画だと思っている人がいます。とんでもない。映画というのは、映画を見に来た人たちのこの雰囲気のことであり、この劇場の空間の空気のことをいうのです。スクリーンのこっち側が映画なのです。
 だから同じ映画でもお客さんが違うとおもしろい映画でもそれほどおもしろいと思えなかったり、逆に期待していなかった映画がなぜか面白かったということがあるのです。それはそのときのお客さんが醸し出す雰囲気に影響されているからなのです。
 その点今日のお客さんの雰囲気は最高です。映画を見るぞという気魄がこうしていてもひしひしと伝わってくるのがわかります。いいときに「戦場にかける橋」を見に来たと思っています。口に出してはいいませんが、「戦場にかける橋」を三倍おもしろく見られたそうだと、実は今ワクワクしているところです。
 まもなく映画の上映が始まります。私の注目はなんといっても早川雪洲です。
 スクリーンに早川雪洲が出てきたら「雪洲! 」と声を掛けますので、うるさいと言わずに、あらかじめご了承していただきたくて、お願い方々、「戦場にかける橋」について私が知っている二、三の事柄をお話させていただきました。
 どうもありがとうございました。