楠美津香ひとりシェイクスピア
「超訳ハムレット」

新宿ゴールデン街劇場 平成18年3月26日
●自由席 3000円(缶ビール付)2列目
一緒に見た人 15人
午後2時5分〜4時


楠美津香(くすのき・みつか)のひとりシェイクスピアを見る。
演題は「ハムレット」。
庵主はこのとき初めて「ハムレット」を見たのである。
そうか、そういう話だったのかと納得したのである。

ひとりシェイクスピアというのは、
楠美津香が一人でシェークスピアの演題を語るのである。
形式は講談に似ているが
一人でやる鳴り物入り、演技ありでその表現は多彩である。

「ハムレット」といえば
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
というセリフで有名だが
全体のストーリーを知っている人は少ないのではないか。

映画化されているはずだから
それを見た人なら知っているかもしれないが、
全編をそっくり映画化したものだったのか。
庵主はそれを見ていないのである。

「弱き者、汝の名は女」というセリフもあった。
「尼寺へ行け」というのも「ハムレット」だと知った。
この3本のセリフは誤解されているのである。
どうやら誤訳のようなのである。

最初のは「成すべきか、成さざるべきか、それが問題だ」
とそのまま訳した方が正しいようだ。
先のセリフはそれを意訳して意味が曖昧になっている。
生きるか死ぬかの問題ではないからである。

実行するかしないかの決断に迷うセリフなのだから。
そして「弱き者」は、か弱いという意味ではない。
王の死後すぐにその弟と結婚した母に対して
その貞操のもろさを悲嘆絶望するセリフなのである。

「弱き者」としたらそれだけ聞いたら
女は男に比べて弱いという意味で取る人もあるだろう。
そうではないということである。
「尼寺へ行け」もまた二義性のある言葉だという。

「尼寺」とは今でいうならば「キャバクラ」だというのが
楠美津香の解釈である。
当時は「尼寺」という言葉はそういう意味で使うこともあった
と書いた本を読んでやっとそのセリフに合点がいったという。

ハムレットの恋人オフェーリアが
気を狂ったと思わせているハムレットの狂言に
私が好きな男はそんなハムレットではないという。
そういう男がほしいなら「尼寺」へ行ってさがせと答える。

尼寺のいうところがその裏の意味を知らずに
「尼寺へ行け」を本当に尼寺に行くと解釈したのでは
なぜ突然尼寺がでてくるのか意味が判らないからである。
なるほど生の芝居は勉強になるのである。

もともと芝居は役者が演じるセリフを聞くものである。
台本を先に読むものではない。
それを戯曲として先に目で読むというのは
手品のたねあかしを先に読んでしまうようなものである。

せっかくの面白さをそいでしまうようなものである。
利口な人は手品の種あかしをのぞかない。
庵主がそうである。
庵主は「ハムレット」と正しい出会をしたのである。

楠美津香は「ハムレット」は優柔不断青年の話だという。
沙翁が書いた戯曲「ハムレット」は舞台をデンマークに
設定して書かれている。
忠臣蔵の主役を大星由良之介とするようなものである。

権力者に気を遣って、
かつ誰が見てもそのいわんとしていることがわかるように
ちゃっかり芝居を楽しんで快哉を叫ぶというのは
洋の東西を問わず社会の知恵のようである。

というより、
当時はそれしか娯楽がなかったのである。
大人も子供も貴族も平民もそれが唯一の娯楽だったからである。
それがすべての人にとって共通の娯楽だったのである。

いまでは娯楽が多様化して
その共通感がなくなってしまったのである。
いまでは大人の知っている歌と子供が知っている歌とが
重ならなくなってしまったのである。

大人は「ハムレット」であるが子供は「ハム太郎」である。
しかも大人は経験しなかったパソコンが社会の主役となって
それが使いこなせないと役に立たないと見られるようになった。
大人の面目がない時代なのである。

人間とはなにかという価値観が本末転倒なのである。
その形の見掛けの美しさに価値を見いだしたのでは
中身の質がどんどん悪くなっていくということである。
本質を忘れてどうでもいいことに目をやるようなものである。

話は突然日本酒の話に代わるが
現在の「日本酒」はアルコール添加、高精白というのが
流行であるがそれをよしとする考え方もあるのである。
それはおかしいと庵主は考えるが意見の分かれるところである。

すなわち真っ当とは何かという信念がゆらいでいるのである。
新技術を使いこなせることが有用なのだという考え方が
支配しているがそれは商業主義の利益になるからである。
その反対の道をすなわち正道を示すのが芸人なのである。

人間の心に叶うものごとが正道である。
生きていてよかったと感じる物事のことである。
着ているもののよしあしがその人間の価値なのではなく
その人間の品性が肝心なのだということである。

人間は差別大好きにできているが
相手もまた同じように思っているのである。
天は一人ひとりの優劣なんか全然気にしていないのである。
他人を見て自分を知れというのが芸を見ることなのである。

普段なら他人をジロジロ見るというのは失礼なことである。
しかし芸人を見ることならそれが許される。
他人を見ると自分が見えてくるということなのである。
芸人とは今生きている自分のニオイのことなのである。

芸は芸人の肉体の存在感が感じられる範囲で見るものである。
すなわち、芸人がもっている肉体の表現なのである。
声であり、体形であり、その体臭であり、雰囲気である。
ストーリーというのはそれをつなぐためのものでしかない。

人は人を見るのが楽しいのである。
もっと正確に言うと他人を見てさげすむのが楽しいのである。
ばか、やってらあ、と見ていることが楽しいのである。
優越感を感じるということが生きている実感だからである。

ゴールデン街劇場をやっている しのママがいう。
「ばかやってるというのは私の場合は褒め言葉よ」と。
そのばかを自分の優越感の裏側に見ることができる心の余裕が
芸を楽しむことができるという教養なのである。

江戸時代には
町内ごとに寄席があったという。
人々は寄席でものごとの真っ当な考え方を学んだのである。
落語家はばかを装って人を諭す先生だったのである。

客を、優越感にひたるといういい気分にさせて
本当はきちんと人間の道を教えていたのである。
現在でも落語が好きだという人ははなんとなく教養が高く
感じられるのはそこで自分を振り返っているからなのである。

自分のことを噺を鏡にして見つめることができる心の余裕がある
ということなのである。
直接お前はばかだといわれたらそれが本当であればあるほど
頭にくるものである。

しかし、こういうばかな人もいるよと
婉曲に教えてくれれば素直に従えるものである。
切磋琢磨というが、
芸を見ることは自分を磨くことなのである。

落語を聞いているとはその洗練された日本語遣いに
庵主はうっとりしてしまう。
いつになったらこんな洒落た言葉遣いができるようになるのかと
自分の未熟さに忸怩たる思いにかられるほどである。

恥ずかしく思ううちは成長の余地があると
いい方向で考えておきたいのである。
この歳でその程度だからそれが限界だとは
考えないでおきたい。

沙翁の戯曲は38本あるという。
楠美津香はそれを全部やるつもりだという。
シェークスピアを
庵主はどうやら楠美津香で聞くことになりそうである。

楠美津香の超訳シェイクスピアは真実に迫るのである。
そして人間の心に迫るのである。
話の芯をしっかりとらえているからわかりやすい。
翻訳は下手すると原作より面白いということなのである。

庵主はめったに書かないその日のアンケートにはこう書いた。
「勉強になりました。生まれて初めてハムレットを見ました。
戯曲は、役者の肉体でそしてその声で聞くものだと思います。
今日はその生の、楠美津香の迫力に圧倒されました」と。