趙博のおんな唄つづれ折りコンサート

門前仲町 門仲天井ホール 平成18年8月25日
●自由席 当日券 3000円
観客数 60人 満員
午後7時〜午後9時45分


8月は終戦記念日の月ということで
この季節の季節商品は反戦である。
今はそんな力がなくなった映画会社の東宝は
毎年8月になると戦争映画を公開して商売していたものである。

趙博が今は唄われなくなった戦時中の歌を掘り返してきた。
軍歌であり、戦争宣伝歌であり、戦時歌謡であり、春歌である。
当時の歌を通して戦争のいやらしさを訴えるのである。
そのあほらしさを再確認しようというわけである。

コンサートは男女二人組の沖縄歌謡の「寿」をゲストに迎えた
第一部のあといよいよ戦時篇にはいる。
「紀元二千六百年」から始まった歌に拍手をすると、
「時局柄拍手は控えるように」といって笑わせる。

歌は世に連れ、世は歌に連れというのは
名キャッチコピーだと思う。
昔の歌を今の観点からみて笑っても仕方がないが
そういう時代に生きていた人がいたということが分かる。

歌と映画はその時代の空気をその中に閉じ込めるのである。
だからそれらをあとからひもとくと
はなつかしいという言葉が心に浮かんでくる。
かといってもまたその時代にはもどりたくないだろう。

本当はもう見たくない出来事なのである。
それをほじくりかえされるのは苦いものがある。
自分の過去を称賛できる人はいないからである。
今の自分は昔よりいいと考えないと生きていけないからである。

というより過去に戻ることができないからといった方がいいか。
その過去に戻りたいという願望を歴史認識というのらしい。
すでに死んだ人の思いを代弁している今生きている人がいるが
おまえさんは恐山のイタコかと揶揄したくなるのである。

今生きている人が言えることは
死んだ人の言葉を忖度して付会して語ることではなく
そんな生き方は自分はしたくないという
己の願望を語ることだけである。

自分の願望を死んだ人に託つけて
自分の欲望に箔をつけて語るのは僣越だということである。
当時を生きた人は大変だったことだろうが、
今その頃の歌を唄ってみるとその力みがおかしいのである。

それを作った人たちはまさか後世それが娯楽として唄われるとは
思ってもいなかったことだろう。
その当時は全世界が挙げて戦争に熱中していたのである。
冷静な国が一つとしてなかった時代なのである。

歌を聞いて笑うというよりは
当時の世界の雰囲気を知ってぞっとするのである。
人類は同時に狂うときがあるということである。
歌は世につれなのである。

「紀元二千六百年」の歌詞はこうである。
「金鵄輝く日本の 栄えある光身に受けて
今こそ祝えこの朝 紀元は二千六百年
あぁ一億の胸はなる」

庵主はそれを聞くとつい遊んでしまいたくなる。
金鵄輝く日本の 栄えある光身に受けて
今こそ祝えこの朝 紀元は二千六百五年
あぁ一億の腹は鳴る

紀元2600年は昭和15年である。
太平洋戦争が始まったのは昭和16年の暮れである。
17年の夏には聯合艦隊の空母がほとんど沈められ
ほとんど敗戦状態だったのに戦争はさらに続くのである。

話に聞くと
当時の日本の指導者たちは
何にために戦争をやっているのか分からなかったのだという。
本当は負けるためにやっていたのである。

戦(いくさ)をすれば死傷者がでる。
交通事故と同じで毎日数十人が死傷しても気にならないが
身近にその死傷者がでると交通戦争は現実味を帯びてくる。
それが続くと厭戦気分になるのである。

負けられません勝つまでは、だったのである。
戦争を引っ張るのが目的だったからである。
巨人ファンではないが勝ちが続くうちはいい。
しかし負けがこんでくると嫌になる。

まして死は鴻毛よりも軽い肉弾戦の実戦である。
肉親につぎつぎに戦死者がでるようになったら
この戦争はおかしいと気がつくのに時間はかからない。
負けがこんできた頃につくられた歌がこれである。

趙勝が「もうやけくそ状態です」といって唄った歌が
「勝ち抜く僕ら少国民」である。
歌詞がすごい。
戦争に行って死にましょうというものである。

「僕らの体にこめてある 弾は肉弾 大和魂
浮沈を誇る敵艦も 一発必中体当たり
見事 轟沈させてみる
飛行機ぐらいは なんのその」

「今日増産の帰り道 みんなで摘んだ花束を
英霊室に供えたら 次は君らだわか
しっかりやれよ頼んだと
胸にひびいた 神の声」

少国民は死ぬために生れてきたのだというような
勇ましい歌なのである。
時代が時代ならそういうあほらしいと思える歌でも
唄わざるを得なかったということである。

戦争をばからしいと一笑に付すことは簡単だが
しかし、国民が一致団結して一つの目標に向かって
行動を起こすというのは気持ちがよかったのだと思う。
なんてったって国のために自分の命を捧げるのである。

今時の軟弱男が女に心を捧げるのとは違う。
なんたって男らしいのである。
そしてそういう男たちに心寄せる女は美しいのである。
軽佻浮薄の現在と比べたらなんと凛々しい時代だったことか。

とはいえ、それは息苦しい時代だったように思える。
価値観が一つというのがうざったいのである。
戦争が戦場で行なわれる正規軍同志の戦闘ではなくなって
日常生活に空から爆弾が降ってくる総力戦となってしまった。

もう戦国時代の合戦のように、
兵士以外は戦闘を見物して楽しんでいるという余裕が
なくなってしまったのである。
皆殺しの戦争である。

またそうなったのではたまらないというのが
あの戦争を経験した人たちの反省だった。
いま東京政府はアメリカ政府の恫喝によって
再び戦争の準備をさせられている。

アジア人同志を戦わせるというのがアメリカの方針である。
今度の戦争ではアメリカ軍の前に自衛隊を置くという体制を
東京政府に押しつけている。
アメリカを支配している銭ゲバ武器商人の思惑なのである。

住基ネットだ、盗聴法だ、個人情報保護法だ、人権擁護法だと、
いま着々と戦争をやる準備が進んでいる。
戦争をやらないと決めている憲法を
なぜ好戦的に変えなければならないのか。

本当に必要なら今の憲法でも戦争はできるのである。
敵がかかってきたらその防戦は正当防衛だからである。
人を殺しても緊急避難(それ以外に対処の方法がない)である。
戦争で金儲けをすることはしないというのが現憲法なのである。

西条八十作詞、古関裕而作曲という最強コンビの
「命捧げて」は特攻隊員に乙女が恋をするうた。
死んでいく人に恋してもしょうがないのに
乙女心をそそるというのがおかしい。

「命捧げて」の歌詞はこうである。
「生きて帰らぬ 覚悟を決めた
雄々しい首途の わが夫(つま)に
うれし涙が うれし涙が またほろり」

もっとも死んでいく特攻隊員に花を持たせる歌なのだろうが
そんなところまで讃える歌を用意するという
戦争遂行局(そんな部局があったかどうか知らないが)の
気配りに感心するてのである。

ああ、運の悪い人というのはこういう美しい歌で送られて
国に殺されてしまうんだなという思いをいだく。
戦争のいやらしいところは
自分の死に方が他人に決められてしまうということである。

生れてきた甲斐がないような気がするのである。
もっと自分が好きなことをやってから死んでもいいように
思えるのにそれを選ぶことができない状態である。
もっとも多くの人は自分のやりたいことがわからないのだが。

だからお国のために死んでこいという明確な方向づけは
じつは意外と気持ちにはりをもたせることになるのである。
目標がはっきりすると人間は生き生きしてくるのである。
それ以外のことを考えなくてもすむからである。

軍隊がかっこよく見えるのはそのせいである。
ただしその代償は予想外に高い死傷率である。
前線に行く心配さえなければこんないいことはないが、
そうでないときはこれほど危険な職業はないのである。

庵主はコンサートのアンコールというスタイルが大嫌いである。
アンコールは本当はよかったよという客の声援なのだと思うが、
同じ金を払ったのだからもう一個おまけを付けろよと
せこい客がせがんでいるようにしか思えないからである。

いつぞや今はなき日劇に沢田研二のコンサートを見に行った時、
アンコールなしにきちんと舞台を終えたのを見て感心した。
劇団未来劇場がアンコールをやらないので気に入っている。
その潔さがいいのである、里吉しげみの美学なのである。

アンコールが大嫌いな庵主だが、
この日のアンコールだけは別だった。
趙博が「ヨイトマケの歌」を唄ったのである。
それまで聞いた歌がいらないと思える一曲である。

女装の男優、美輪明宏が丸山明宏時代に作詞作曲した歌である。
美和明宏が歌うのも良いが、
在日朝鮮人を自称する趙博が朝鮮人は被差別民族だという
思い入れタップリにはったりを込めて唄うとなおいい。

だれが唄っても心にしみてくる歌だから
歌自体がよくできているのである。
とりわけ趙博が朝鮮語なまりの発音で唄うと
二重の意味で心に響くのである。

まず土方という肉体労働者に対する偏見と
朝鮮人に対する偏見とが重なって聞こえるから
その歌を聞いていると社会的弱者に対して
明らかに優越感を感じてほっとしている自分を見るからである。

自分はそんな蔑まれる生活をしていないという気持ちである。
他人の生き方を見せ物を見るように聞いていられるからである。
人間は他人に対して優越感を感じているときが一番気持ちいい。
趙博はわざと朝鮮語訛りで唄うことで客を喜ばせるのである。

日本人の心理をくすぐる作戦とみた。
と同時にずるいと思う。
在日朝鮮人という戦後になって醸成された虚構に依拠して
自分たちがあたかも弱者であるかのように演出するからである。

今時は在日朝鮮人よりも弱者の若い日本人がいくらでもいる。
弱者の連帯に向かうのではなくて、
その歌を民族差別だとして唄うとしたら
それこそ戦争を企てている人たちを利するだけではないか。

戦争に反対するのはなにもそれが悪いことだからではない。
この会場に来るような人たちは庵主も含めて
戦争になったら損することはあっても得することは一つもない
細民だからである。

間違っても戦争をする側には立つことがないことがわかっている
弱者の側にいる者だからである。
得にもならないのに命を捨てるのは間尺に合わないからである。
戦争とは強者による弱者に対する圧迫にほかならない。

だから戦争はなくならない。
また戦争自体は犯罪ではない。
力関係だからどうしょうもないのである。
しかし、それではいけないというのが理性であり知性である。

反戦という思想は弱肉強食という自然状態を
理で押さえようという一つの考え方であって
かなり不自然なことであるということもまた確かである。
しかし戦争に反対するとしたら地道なやり方しかないのである。

そのやり方の一つがこの「おんな唄」であるが
着想はよかったがまだツッコミが浅いために
これでは戦争大好きという人たちの奸智には立ち向かえない。
磨けば良くなる企画だからさらに深化させてほしいと思う。

もったいないが世界的な流行だといわれる
今日でも唄える歌がこれである。
それはまた教育の要諦を伝える歌でもある。
「欲しがりません勝つまでは」

「どんなに短い鉛筆も どんな小さい紙切れも
無駄にしないで使います
そうです 僕たち私たち
欲しがりません 勝つまでは

靴や洋服新しく 作ることより役に立つ
強い体を作ります
そうです 銃後も戦地です。
ほしがりません 勝つまでは

これは戦車に飛行機に これは艦を作るため
皆揃って貯金です
そうです 心をひきしめて
欲しがりません 勝つまでは

北に南に次々とあがる日の丸かちどかに
負けず劣らず進みます
そうです 日本の子供なら
欲しがりません 勝つまでは」