趙博の歌うキネマ「ホタル」
上大岡 港南区民文化センター 平成18年9月16日
●自由席 前売券 2000円
観客数 30人 入り80%
午後7時00分〜午後9時00分
趙博の歌うキネマ「ホタル」を聞く。
昔見た映画だが細部の記憶はない。
趙博の語りを聞いていて映画の画面を思い出す。
忘れていた記憶がよみがえってくる。
見た映画は記憶の淵に眠っていたということである。
映画を見て涙した場面で
また涙を押さえることができなかった。
あふれでる涙の中で映画の場面をはっきりと思い出していた。
庵主はうっかり前に読んだことがある本をまた買ってしまった
ということが何度かある。
興味の方向と感性は全然変わらないということである。
それが自分なのだと思うしかない。
どこで涙したのか。
知覧で特攻隊員を世話していた旅館の
奈良岡朋子が旅館をやめて老人ホームに入ることになり
その別れの会の場面である。
元特攻隊だった男の孫娘が奈良岡朋子に花束をわたす。
そのとき、
「みんな、あんたぐらいの年頃だった」という。
そのあとのセリフで泣かされるのである。
「男たちの大和」で泣けた人なら必ず泣ける
セリフである。
気持ちいいぐら涙があふれる。
この映画、奈良岡朋子の演技がよすぎたという評価もある。
それに比べると高倉健は大根役者なのだと思う。
何を演じても高倉健しかできない役者である。
しかし、それだからこそ
安心して見ていられるのである。
庵主は吉永小百合が出る映画は見たくはないが、
高倉健の映画なら気が進まなくても
じゃ、見に行ってやろうかという気持ちになる。
日本映画最後の映画スターだからである。
スターに浸ることの心地よさを知っているからである。
しかも高倉健の映画は
いうならば寅さん映画である。
観客の想定外のことは絶対しないからである。
そして期待通りのものはみせてくれるからである。
はっきりいってストーリーはどうでもいいのである。
そこに高倉健が映っていればいい。
それがたまたま朝鮮人特攻隊だったのは付け足しだろう。
韓流ブームの先駆けだとしたら
企画が時代を先取りしていたというわけである。
一緒に戦った日本人と朝鮮人は
戦後六十年たってもまだわだかまりがある。
また同じ朝鮮人でも
いまは北と南ではりあっている。
顔つきは似ていても、
日本人とは違うということである。
地理的には近い所にあっても
その行動様式は別な人たちである。
それを無理に一緒にやろうという声を掛けても
うまくいくわけがないということがわかる。
人種的軋轢によるストレスが
社会の発展をうながすという考え方もあるが
そんな疲れる社会は庵主は苦手である。
今の日本人は戦争をする気持ちがさらさらない。
しかし、周辺の中国とか朝鮮国とか韓国が
日本にちょっかいを出してくるから、
その行動がアメリカにいいように使われて
日本はしなくてもいい苦労をしているというのが現状である。
中国人とか朝鮮人とは距離をおいてつきあうのが
穏当な関係だというとがわかるのである。
「ホタル」のミソは朝鮮人特攻隊員である。
日本のために死んだ朝鮮人がいるというのである。
当時、日本と朝鮮は合邦国家だった。
いまの日本とアメリカのようなものである。
今日の日米は合邦国家ではないが、
両国の軍事力はほとんどをアメリカが持つという関係である。
ならぱ米国が血を流すときは
日本も血を流せと迫られても文句はいえない。
当時日本が国をあげて戦争をしているときに、
日米関係より深い関係の朝鮮人は何をしていたか。
いま日本人と同じように
アメリカの戦争で血を流すのは
馬鹿馬鹿しいと思っていた。
冷静だったのである。
日本が勝手に始めた戦争なのに
なぜ朝鮮人が血を流さなくてはならないのか。
いまの日本人の行動とまったく同じである。
アメリカが勝手に始めたイラク戦争に加担したくないのである。
当時の朝鮮人は
日本の敗色が濃くなったころに
はじめて動員されることになったのである。
日本の戦争で殺されるのはおもしろくなかったことだろう。
日本人の特攻隊員は
この日本を守るために死んでいったのに、
朝鮮人特攻隊員は自分の故郷を思って
死んで行ったという。
ならば、なにも死ぬことはなかったのである。
守るものがなかったのだから、
無理して日本人に調子を合わせて
死ぬことはなかったのである。
映画を見ていても
朝鮮人特攻隊員がなんで爆弾を抱えて突っ込んだのか
よく理解できなかったから
そこでは泣けなかった。
それよりも
奈良岡朋子のセリフに泣けたのである。
なんでこんな子供を死なせなければならなかったの。
母親は子供をちゃんと守ってあげられなかったのか。
その悔いのこもった言葉に泣けるのである。
だまされていたという思いだろう。
当時の男たちの威勢のいい言葉に騙されていたという
後悔である。
「朝日新聞」の戦時中の紙面を今見てみると、
イケイケドンドンで本当の戦犯は
国民をあおったこいつらではないのかと思えるほどだが
「朝日」の言葉が信じられないのはそのせいなのである。
当時はそういう記事を読者が好んでいたのだから
仕方なかったというものである。
景気の悪い記事を書くと糾弾されたというのである。
鶏が先か卵が先かになってしまうのである。
読者というのは日本の国民である。
好んで戦地に赴いたわが先人のことである。
そこで戦争責任がどこにあったのかという議論が
循環してしまう。
被害者の面をしている国民が
みんなで戦争を支持していたではないか
ということになって、
被害者のはずが加害者になってしまうからである。
その点ドイツは割り切って
自分たちの責任逃れをしている。
ナチスドイツはヒトラーが悪かったというのである。
そんなことはウソに決まっている。
ではその手先となって意気揚々と戦ったのは
どこの人だったのか。
ヒトラー一人に責任を押しつけることで
自分たちはのうのうとして暮らしているのである。
日本人もそれをやればよかったのである。
みんなしてやったせんそうである。
日清・日露、第一次世界対戦と
日本は戦争をすることで儲かったのである。
その甘い夢をまた見ようとしたのである。
それが思ってもいなかった結果になって
みんな俺の責任じゃないとうそぶいている。
東絛英機が男だったら全責任を引き受ければよかったのである。
そうすれば
悪いのは天皇陛下さえもだました東絛が全部悪いということで
戦後の日本人はドイツ人のように気持ちよく過ごせたのである。
後顧の憂いなく堂々と未来に向かって邁進できたのである。
終わった戦争をいくら反省しても負けが勝ちになるわけではない。
死んだ人が生き返ってくるものでもない。
しかも戦争自体は犯罪でもなんでもないからである。
つきつけても解決にはならないのである。
その証拠にいまの日本はまた戦争体制を整えようとしている。
普通の国家になるためだという。
その普通というのは正しいが、その背景は
アメリカの都合によるものだということが見えているのである。
自分から思い立ったものではなくて、
アメリカに恫喝されてというのが面白くないではないか。
戦後の日本のモットーは専守防衛である。
軍備は侵略のためには使わないということである。
ただし絶対使わないということではない。
平和を愛する諸国民に対しては、という条件つきなのである。
日本にちょっかいを出してくる国があるとしたら、
それは平和を愛する国ではないということになる。
いまの憲法でも十分ドンパチはできるのである。
なにもアメリカに唆されて戦争の準備をすることはないのである。
いくら法律を整備しても、またしなくても
いざとなったらそんなことは関係なく戦うしかないからである。
「ホタル」はただ泣くためだけの映画である。
高倉健に期待されていることは
寅さんがわらわせてくれることだとしたら、
健さんは日本人を心から泣かせてくれることである。
健さんはちゃんとその期待にこたえてくれる。
趙博の「ホタル」はその健さんをきちんと演じているから
あるとき趙博がまさしく高倉健に見えるのである。
歌うキネマは声帯模写ならぬ俳優の形態模写なのである。
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